――翌朝
朱莉は暗い気分で布団から起き上がった。昨日は以前からお休みを貰う約束を勤め先の缶詰工場には伝えていたのだが、今朝は突然の休暇願に社長に電話越しに怒られてしまったのだ。結局母の体調が思わしくないので……と言うと、不承不承納得してくれたのだが……。
「これで会社を辞めるって言ったら……どんな顔されるんだろう」
溜息をつくと、着替えを済ませて洗濯をしながらトーストにミルク、サラダとシンプルな朝食を食べた。 洗濯物を干し終えて時計を見ると既に8時45分になろうとしている。「大変っ! 急がないと10時の約束に間に合わないかも!」
朱莉は慌てて家を飛び出し、鳴海の会社に到着したのは9時50分だった。
(よ、良かった……間に合った……)
早速受付に行くと、朱莉と殆ど年齢が変わらない2人の女性が座っていた。
「あの……須藤朱莉と申しますが……」
そこから先は何と言おうと考えていると、受付の女性が笑顔を見せる。
「はい、お話は伺っております。人材派遣会社の方ですね。今担当者をお呼びしますので少々お待ちください」
受付嬢は電話を掛けた。
(え? 人材派遣会社……? あ……ひょっとすると私の素性を知られるのを恐れて……?)
受付嬢は電話を切ると朱莉に説明した。
「5分程で担当の者が参りますので、あちらのソファでお掛けになってお待ち下さい」
女性の示した先にはガラス張りのロビーの側にソファが並べられていた。
朱莉は頭をさげると、ソファに座った。(素敵な会社だな……。大きくて、綺麗で……あの人たちのお給料はどれくらいなんだろう。きっと正社員で私よりもずっといいお給料貰っているんだろうな……)
そう考えると、ますます自分が惨めに思えてきた。昨日の面接がまさか偽造結婚の相手を決める為の物だったとは。挙句に翔が朱莉に放った言葉。
『そうでなければ……君のような人材に声をかけるはずはない』
あの時の言葉が朱莉の中で蘇ってくる。そう、所詮このような大企業は朱莉のように学歴も無ければ、何の資格も持たない人間では所詮入社等出来るはずが無かったのだ。
その時、昨日面接時に対応した時と同じ男性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「お待たせ致しました。須藤朱莉様。お話は社長の方から伺っております。では早速ご案内させいただきますね」
「はい、よろしくお願いいたします」
挨拶を交わすと琢磨は先頭に立って歩き始めた。そして後ろを黙ってついてくる朱莉をチラリと見る。
(あ~あ……。可哀そうに……。昨日はまだ希望に満ちた目をしていたのに今日はまるで別人の様だ。あいつは明日香ちゃん以外の女性にはあたりがきついからな……。だけどあんな気の強い女の何処がいいんだろう? 俺だったらやっぱりそんなに美人じゃ無くても気立ての良い女の方がいいけどな)
その時、背後から朱莉が声をかけてきた。
「あの……副社長は本日もお忙しいのでしょうか?」
「ええ、そうですね。一応ここの会社の副社長ですからね。分刻みのスケジュールで動いていますよ」
「そうでしたか。……それでは昨日は申し訳ない事をしてしまいましたね。私の為に時間を割く事になってしまって……」
「いえ、それは気になさらなくて大丈夫ですよ。その為に昨日はスケジュールを空けておいたのですから」
(何だ? 随分自虐的な言い方をするな……?)
琢磨はチラリと朱莉に視線を送ったが、その目は虚ろで元気が無かった。
(おいおい……勘弁してくれよ。この偽造結婚でノイローゼにでもなって自殺されたらかなわないじゃないか……)
そして琢磨は小さくため息をつくのだった。
****案内された部屋は小さな会議室だった。琢磨は椅子に座るように朱莉に言うと、紙袋を持ってきた。
「では須藤様。副社長に昨日言われて、貴方の為にご用意させていただきました。今後の生活に必要な物です。一緒に確認させて頂きますね」
琢磨は紙袋の中身を全て出すと、一つ一つ朱莉に説明していく。まずは提示されたブラックカード、そして新しいスマホや、ネットバンキング、新しく済むマンションのパンフレット等々……。最後に渡されたのが……。
「ではこちらがお2人の婚姻届けになっております。もう副社長は記入が済んでおりますので、後は須藤様が記名していただければ手続きは完了となります。ご印鑑はお持ちですか?」
「は、はい……」
「さようでございますか。それでは記入をお願いいたします」
朱莉は、まるでアンケート用紙に記入をお願いしますと言われたような気分で婚姻届けを見下ろした。…実は朱莉は結婚に対して強い憧れを抱いていたのだ。
朱莉の両親は誰から見てもそれは仲睦まじい夫婦であった。お互いを思いやり、正に理想の夫婦像であった。だから父が亡くなった時の母の悲しみは尋常ではない程だった。その精神的ショックから身体体調をくずしてしまった。それでも身を粉にして働き……とうとう入院しなければならない程にまで身体を壊してしまったのだった。
だからこそ朱莉は両親のように素敵な伴侶を見つけて、素敵な家族を作り末永く幸せに暮らしていきたいと思っていたのだが……。(まさか……私の結婚が……偽の契約結婚になるなんて……)
「どうしましたか? 須藤様」
(まさかここにきて婚姻届けにサインするの拒否するつもりじゃないだろうな……?)
顔に笑みを浮かべながらも琢磨は非常に焦っていた。
「あ、申し訳ございません。少しボーッとしてしまって……すぐにサインしますね」
朱莉は婚姻届けに目を落すと、そこに自分の名前、印鑑を押した。
「はい、どうもありがうございました。既にこちらのスマホに副社長の連絡先を入れてありますので、今後はこちらをお使いになられて連絡を取り合って下い。婚姻届けはこちらで提出しますので、受理されましたら私供から連絡を入れさせて頂きます。あ、申し遅れましたが私の名前は九条琢磨と申します。副社長の第一秘書を務めさせて頂いております。今後、私からも何かとご連絡を入れさせて頂く事がありますので、私の連絡先も登録させて頂いております。何か御不明な点がございましたらメールをご利用下さい」
「分かりました。どうもありがとうございます。あの……ところで私はいつから引っ越しをすれば宜しいのでしょうか?」
朱莉は引っ越し手続きが一番心配だったのだ。
「須藤様はご家族と同居されているのですか?」
「いいえ、1人暮らしです」
「住んでいる場所は持ち家でしょうか? それとも賃貸でしょうか?」
「賃貸です」
「さようでございますか」
(くそっ! なんだよ、翔はこの話知っていたのか? 賃貸ならすぐに引っ越し手続きするのは手間じゃ無いかよ!)
琢磨は翔に出来るだけ早くに朱莉をマンションに移す様に指示されていたのだ。
「あの……どうかしましたか?」
「あ、いえ。大丈夫です。それでは須藤様がスムーズに引っ越しする事が出来ますように私もお手伝いさせて頂きますね」
それを聞いた朱莉は頭を下げた。
****「どうもいろいろと有難うございました」
出口まで案内してくれた琢磨に丁寧に頭を下げると朱莉は去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、琢磨は心の中で毒づいていた。(全く翔の奴め……! こっちの仕事を増やしやがって……! 覚えていろよ!)
そして踵を返すと、琢磨は翔のいる社長室へと向かった。一言、いや、二言物申す為に――
その頃、航と朱莉は江の島に来ていた。「ほら、朱莉。見て見ろよ。サザエのつぼ焼きだってさ、旨そうだな~」 駐車場の傍に立ち並んでいる店先でサザエを網に乗せて焼いている店を発見した航が興奮していた。「本当だ、磯のいい香りがするね。航君、食べたいなら買ってあげようか?」朱莉の言葉に航は慌てた。「な、何言ってるんだよ! 男が女に奢って貰うわけにはいかないだろう?」「え? だって今日は車だって出してもらってるじゃない。お金かかったでしょう? 高速代やガソリン代。だから食べ物のお金位出してあげるのに」「そういう問題じゃないんだよ。いいか? 朱莉。俺がお前を誘ったんだから、朱莉は今日は一切、金は出すな。分かったか? 第一……」航はそこで言葉を切った。(これは……朱莉はどう思っているか知らないが、俺の中では朱莉とのデートのつもりなんだから……!)そして思わず航は赤面してしまった。デート……自分で思った言葉なのに、何だか照れ臭くなってしまったのだ。 航は隣を歩く朱莉をチラリと見た。背の低い朱莉は並んで歩くと航の肩に届くか届かないかの背丈しかない。身体も細く、華奢な身体つきで思わず庇護欲をかきたてられてしまう。(だからなんだろうな……。俺より3歳年上なのにちっともそう思えないのは……)それに今年で30歳なのに、とてもそんな年齢には思えない。朱莉は若々しく、本当に美しい女性だったのだ。その為か、今日は土曜日と言うこともあり、大勢の観光客が来ているが、朱莉の傍を通り過ぎる男達が朱莉をジロジロ見ているのが気に食わなくてしょうがなかった。(くそ……! なんだ、さっきの若い男。朱莉のことを凝視しやがって……!)「……君。ねえ、航君てば!」「え?」航は朱莉に袖を引っ張られて、我に返った。「な、何だ? 朱莉」「航君、さっきからずっと呼んでるのに無反応だったから……何か考えごと? それとも疲れてる? 疲れてるならどこかで休んで……」「い、いや。大丈夫だ。俺はどこも疲れていないぞ? それでどうしたんだ?」航は朱莉の瞳に自分しか映っていないのが嬉しく、ウキウキしながら尋ねた。「どうしたって言われても……。ねえ、航君。私達、これからどこ行くの? さっきから航君黙って歩いているから……」気付けば航と朱莉は1件の土産物屋の前に立っていた。「あ……」「ひょっ
「適当にその辺の椅子に掛けてくれ」事務所の中へ入ってきた美由紀に安西弘樹は声をかけた。「はい、失礼します」美由紀は背もたれ付きの長椅子に座る。目の前にはやはり長テーブルが置かれている。安西は部屋のどこかへ行ったのか姿が見えない。(へえ……航君……ここで働いているんだ)美由紀は部屋の中をキョロキョロと見渡した。部屋の造りはまるで学校の教室を思わせた。窓にはブラインドがかけられ、部屋の隅には大きな机にPCやプリンターが乗っており、ロッカーや本棚が壁を覆うように置かれている。「待たせたね」その時、部屋の奥から安西がやってきた。両手にはマグカップが握りしめられている。「どうぞ、私が自分で豆を挽いて淹れたコーヒーだよ」安西は美由紀の前のテーブルにコトンとコーヒーを置いた。「いただきます」美由紀はマグカップに手を伸ばし、口元に持っていくと匂いを嗅いだ。「すごい。いい香り……」ポツリと言うと、安西は笑みを浮かべた。「そうだろう? やはり挽きたてのコーヒーは香りが違うんだ」「そうですね」美由紀は一口飲んでみると、芳醇な香りと味がする。やはりインスタントとは違い、美味しかった。「美味しいですね」美由紀は顔を上げた。「そうかい、それは良かった」そして安西もコーヒーを飲むと美由紀に尋ねた。「美由紀さん。見てのとおり、今日航はいないんだ。どういう用件で来たのかな?」すると美由紀は肩をビクリと震わせる。「あ、あの……私、先週航君と別れたばっかりなんです……」「……知ってるよ」「で、でもどうしても会いたくて、いえ、会いに来たら迷惑がられるのは分かっていたので……だから遠目からで構わないから姿を見たくて……」もはや美由紀は自分が何を伝えたいか分からなくなっていた。伝えたいことは山ほどあるのに、頭の中で整理がつかない。慌てた様子の美由紀を見つめながら安西は口を開いた。「美由紀さん……つまり、君は航とは別れたけど会いたくてここにやって来たってことなんだね? それで航と寄りを戻したいと言うわけなのかい?」すると美由紀は俯いた。「寄りを戻す? 多分、それは無理です。だって航君……私と付き合っていてもずっと忘れられない女性がいたんですよ? この間、私と一緒に映画館に行った時……偶然その女性と再会して……大勢の人前にも関わらず……航君は女性を抱き
その頃美由紀は――(はあ……私ってダメな女だわ……)安西事務所のドアの前で溜息をついて立っていた。 美由紀は航と別れたショックで3日間、有休を取ってしまった。4日目から仕事に復帰したが、始終ぼんやりすることが多く、ミスばかりしてしまい5日目に上司に呼び出されてこっぴどく叱られてしまった。そして6日目の今日……。実に4年ぶりの一人きりの週末を迎えてしまった。美由紀は寂しさを紛らわせる為に金曜日の仕事帰りに大量に缶チューハイを買ってきた。そして土曜の朝からベッドの中でネット配信ドラマを観ていたのだが、全てが恋愛物だった。それを1人で観ているとむなしさだけが込み上げてくる。そこでコメディードラマに変えたのだが、少しも頭に入ってこないし、笑える気持ちになれない。結局美由紀は途中でドラマを観るのをやめて、スマホに手を伸ばした。お気に入りのアプリゲームを起動したが、それもやはり女性向けの恋愛シュミレーションゲームだった。「……もう!」思わずベッドの上にスマホを投げつけた。美由紀の頭の中は恋愛脳だったのだ。美由紀にとって、恋愛は人生全てを表していた。つまり、航を中心に世界は回っていたのだ。なので航を失ってしまった今、喪失感は計り知れないものだった。両膝を抱え、自分の部屋をグルリと見渡した。テレビを見れば、航と2人で観たことを思い出し、テーブルを見れば、2人でこの部屋で食事をしたことを思い出し……そして今美由紀が座っているベッドの上は……航に抱かれた記憶が蘇ってくる。「航君……」あれだけ泣き暮した美由紀の目に再びジワジワと涙が滲んでくる。「航君……もういやだよぉ……お願い……戻って来てよ……」美由紀はベッドの上に放り投げたスマホを握りしめ、航の電話番号を表示させた。そして震える手で画面をタップしようとして……手を止めた。「出来ない……電話したくても出来ないよ……。だってこれ以上しつこくしたら今度は本当に嫌われちゃうもの……」やがてベッドから起き上がり、目をゴシゴシと擦ると外出着に着替え、貴重品をショルダーバックにしまうと、ふらふらと玄関へと向かった――**** 気づけば美由紀は上野駅に立っていた。無意識のうちに航の住む上野へ足を運んでいたのだ。(話をしなくてもいい。せめて遠目からでも構わないから航君に一目会いたい……!)美由紀は急ぎ足で安西事
朱莉はマンションのエントランスの中で航と待ち合わせをしていた。どこにドライブに行くのかを聞いていなかった朱莉は動きやすいパンツスタイルにワンショルダーバックを肩から下げて航が来るのを静かに待っていた。やがて黒いワンボックスカーがマンションの敷地に入ってきた。「あ、あの車かな?」エントランスから出て見ると、やはりこちに向って運転しているのは航であった。航の乗った車はエントランス前で止まり、すぐに運転席から航が降りてくると駆け寄ってきた。「わ、悪い……朱莉。待ったか?」(朱莉には言えないな……着ていく服を迷って、アパートを出るのが遅くなってしまったなんて……)「ううん、大丈夫。5分も待っていないから」笑顔の朱莉を見て航は思わず赤面しそうになり、顔をそらせた。「よし。朱莉、とりあえず車に乗ろう。このままじゃ人目につくだろう?」「そうかな?」朱莉は首をかしげながらも車に近づき、助手席のドアを開けようとして……。「ま、待て。朱莉、俺が開けるから」航は朱莉の前に立つとドアをガチャリと開ける。「さあ、乗ってくれ」「うん。ありがとう」笑みを浮かべて車に乗り込む朱莉。朱莉の一挙手一投足すべてが航の胸を高鳴らせた。こんな感情を持てるのは、やはり朱莉だけだった。朱莉が乗り込むのを見届けると航も運転席に回り込み、ドアを開けて座るとシートベルトを締めて……固まった。(ま、まずい……。着ていく服を迷っていたから、肝心の行先を決めていなかった!)朱莉は運転席に座り、じっとしている航を不審に思い、声をかけた。「ねえ? 航君……どうしたの?」「あ! い、いや……! そ、それで朱莉……これからどこへ行こうか!?」航は引きつった笑みを浮かべながら朱莉を見た。「う~ん。どこでもいいんだけどな……。ところで航君。こうして2人でドライブなんて沖縄にいた時を思いださない?」「沖縄か……うん、そうだな。言われてみれば確かにそうかもしれない」(思えばあの時が俺にとって人生で一番幸せだった時間かもしれない。朱莉と初めて沖縄で出会って、居候させてもらって……そして……朱莉を好きになって……)だが、その反面自分は何て薄情で最低な男なのだろうと思った。4年も付き合った美由紀と先週別れたばかりで、もうこうして朱莉に会いに来ている自分がいるのだ。我ながら、最低ぶりに溜息を
「ははあ~ん……さては図星だな」「な……!? と、父さんには関係ないだろう!?」しかし弘樹は続ける。「どうしたんだ航。お前にしては随分長く交際が続いているとは思っていたが……あれか? もしかして倦怠期でも入ったか? もうお前達、付き合い始めて4年になるしな。お互い本気ならそろそろ結婚を意識しても……」「もうその話はやめてくれ!」航は大声をあげて弘樹の言葉を制した。その様子を見て弘樹はピンときた。「おまえ……ひょっとして美由紀さんと別れたのか?」「……」しかし航は答えない。「ふむ……答えないってことは肯定を意味しているってことだな? 一体何故別れたんだ? お前たちお似合いだと思っていたのに……もしかして航。お前振られたのか?」「……違う。俺の……俺のせいだ」航はボソリと呟くように言った。「まあ……お前ももう大人だ。俺がどうこうと口を挟むことでは無いが……仕事はきちんとやれよ?」「分かってる……そんなこと」「今日は定休日だし、気分転換にどこかへでかけたらどうだ? 車なら貸すぞ?」弘樹は航の前に車のキーを置いた。(そうだな……気分転換にどこかドライブにでも行ってみるか……)「ありがとう、それじゃ車借りるわ」航は車のカギをジーンズのポケットにねじ込むと、事務所を後にした。 部屋に帰った航はじっとスマホを握りしめていたが……深呼吸すると航はスマホをタップした――**** 掃除、洗濯を終えた朱莉はミシンで縫物をしていた。蓮が幼稚園に通い始めてからは少しずつ自分の時間が取れるようになった。そこでミシンで蓮の通園バックやちょっとした洋裁をするようになっていたのだ。今、朱莉が作っているのは蓮の為の巾着式のランチバック。大好きなアニメキャラクターのデザインの生地でランチバックを縫い上げる。後は2本の紐を通せば完成だ。「フフ……蓮ちゃん、喜んでくれるかな?」朱莉が笑みを浮かべると、突如スマホの着信が鳴った。(もしかして明日香さん? 蓮ちゃんと何かあったのかな?)朱莉は急いでスマホを確認すると、それは航からであった。「え? 航君?」朱莉はスマホをタップすると電話に応じた。「はい、もしもし」『……朱莉か?』「そう、私だよ。1週間ぶりだね。航君。今日はどうしたの?」『い、いや……今、朱莉は何してるのかなと思って……蓮と一緒なんだ
あれから1週間の時が流れた。 土曜日の7時ーー「お母さん、それじゃ行ってきます!」蓮がリュックを背負い、明日香に手をつながれマンションの玄関で朱莉に手を振る。「はい、行ってらっしゃい。蓮ちゃん。それでは明日香さん、よろしくお願いします」「ええ、大丈夫よ。任せてちょうだい」明日香は大きなキャリーバックを持ち、Tシャツにジーンズ、そしてスニーカーと普段ではあまり見せないようなラフなスタイルだった。「僕、すっごい楽しみだな~キャンプでお泊りなんて初めてだもの」蓮は目をキラキラさせた。「フフ……蓮君。キャンプと言ってもすっごいのよ。『グランピング』って言って大自然の中に綺麗なホテルのようなお部屋があるの。お風呂もついているし、バーベキューもすぐできるのよ。近くには動物園と水族館があって、餌やりの体験もできるんだから」明日香は蓮の手を握りしめている。「うわ~い、楽しそう。早く行こう!」蓮はすっかりはしゃいでいる。「蓮ちゃん。楽しんできてね?」朱莉は蓮に声をかけた。「うん、お母さん。お土産持って帰ってくるね」「ありがとう。楽しみにしてるね」蓮の頭をなでながら笑顔を向ける朱莉。「よし、それじゃ蓮君。行こうか?」明日香に促され、蓮は頷くと元気よく朱莉に手を振って2人は朱莉の住むマンションを後にしたーードアが閉められ、1人きりになると朱莉は溜息をついた。先程迄にぎやかだった部屋が途端に静まり返る。部屋の奥では時折ゲージの中で動き回っているネイビーの気配はあるものの、寂しいほどの静けさが部屋の中を満たしていた。蓮は明日香の誘いで、今日から1泊2日で千葉県にある『グランピング』に泊りで遊びに出掛けることになったのだ。この話が出たのは月曜の夜で、突然明日香が朱莉と蓮の元を訪ねて提案してきたのだ。蓮と2人で1泊2日で千葉の『グランピング』施設に宿泊したいと申し出があった時……正直朱莉は迷った。蓮はまだ4歳。朱莉と丸1日離れた経験は無い。それなのにいきなり明日香と2人きりで宿泊などして大丈夫なのかと不安がよぎった。しかし蓮はとても行きたがり、明日香からも頭を下げられた。それによくよく考えてみれば明日香と蓮は実の親子。2人の旅行を朱莉に止める権利など無かった。それで朱莉は2人での旅行にうなずいたのだった。(蓮ちゃん……夜、おうちが恋しいって泣